月夜の戯れ言

ラブライブとV系バンドが好きなサラリーマンのブログ

『ラブライブ!The School Idol Movie』の感想と考察(ネタバレ注意)

※2015年6月13日に劇場場ラブライブ視聴直後に書いた考察文です。プライベッターに載せていたものをそのまま掲載します。

 

 もともと見たままに素直に、率直に正直に楽しめるのがラブライブ!の特徴で、思わせぶりな余韻や後に尾を引く推察、空想の余地というのはあまりないのが、アニメ一期の特徴である。
 それが二期となり、少し深読みや推察を許容しうる作劇に、ほんの少しだけ変化した。もちろん見たままに楽しんでもいいし、本来それが正道だ。一部のアニメオタクだけにでなく、一般的な感性を持つ全ての人に向け作劇されており、アイドルという題材にしろ、テーマにしろとてもわかりやすい。二期ならば、仲間たちと協力し、団結してひとつの曲をつくり、μ'sという視聴者にとって最も身近であり、視聴者にとっての目当てでもある最も大事なμ'sというもののあらましを描く。しかるのちそれにより育まれた絆により、第二回ラブライブ!で勝利する。
 そのわかり易さというのも、ラブライブがここまで大きくなり広がったことの理由のひとつだと思う。
 それだけで充分に面白いし価値があるのだが、主人公たる高坂穂乃果の変化、成長の足跡と『みんなで叶える物語』というテーマ性を重ねあわせ考えるとより作品性に深みを見いだせる。

 今回公開された劇場版は、二期からそのまま地続きの物語であり、同じように見たままに充分楽しめる。簡単なあらすじは以下のようになる。
 第三回ラブライブのための宣伝という役割を担ってアメリカへと飛ぶ。舞台は変えれど、そこで行われるのはこれまでと同じく、練習し協力してライブを行うことだ。しかし帰国後、アメリカでのライブの大成功から、予想外なくらいにファンが増えμ'sという存在が大きくなりすぎ、メンバーたちは思い悩む。このあたりは正に今の現実世界でのラブライブの存在とリンクする。とてつもないことだ。
 自分たちのことを自分たちで決め、三年生の卒業とともにμ'sを終わりにすることを選んだ。しかし、周囲の期待が大きすぎ、本当に終わらせても良いものかとメンバーたちは悩む。悩んだ末、終わらせるのは変えないにしろ、三月いっぱいは精一杯に活動し、第三回ラブライブに向けたアピールも行い、最後に皆の期待に答え、ライブをやり締めくくると決めた。結果アピールはうまくいき、ドームでのラブライブ開催決定という、のちのスクールアイドルたちへの大きな実績も残し、μ'sは解散する。μ'sは伝説となった。それが音ノ木坂学院アイドル研究部の三年生となった亜里沙と雪穂により幕引きとして語られる。部室には大勢の入部希望者が詰めかけている。
 劇場版ラブライブはそういう物語だ。

 こういった物語の道筋の中でひとつ、はっきりとわからない部分が存在する。それが穂乃果がアメリカで出会ったあの謎の女性シンガーの存在である。普通に考えるなら、あれは未来の高坂穂乃果でもいいし、偶然であった人物でもいい。どちらとも好きなように解釈して楽しめばいい部分だが、そこで考えを深めると、ラブライブ!という作品の大いなる意味、意義が見えてくる。今回はそれについて書いてみようと思う。いちおう、筋道のたった考察たりうると自分では思うのが、正解かどうかは作り手にしかわからないし、作り手はそれを明かさないだろう。つまり永遠に正答のない部分なのだが、こんな解釈もあると受け止めてもらえば幸いとなる。


 さて。あの謎の女性シンガーであるが、声優さんこそ違えど、髪の色が同じオレンジで、髪型も『大人びた穂乃果』として許容しうる類似を持つ。瞳の色も同じ水色で、謎の女性が穂乃果のことを落ち着きがないと笑うも、本人も忘れていないマイクを忘れたと勘違いして慌てるなど、落ち着きの無さに関してはいい勝負だ。作画的にもよく似ていて、歌う姿の横顔は穂乃果にそっくりだ。
 いわゆるフィクションの定番として、未来の自分との邂逅というのがある。それを踏まえた表現というのをこの女性シンガーは満たしている。

 まずはここで、「未来の穂乃果でも、偶然知り合った人でもどちらでもいい」という状態から考察を深めるため、ひとつの定義する。
 それは、ラブライブにおいて未来の自分と出会う、という展開は絶対に存在しない、ということだ。
 ラブライブ!という物語は、我々が住む現実世界に則した物語であり、タイムスリップ的なSFや、空から玉手箱が降ってくるようなファンタジーではないということだ。つまり、未来の自分に出会ったりは絶対にしないのだ。(これまでの作劇に則るならばであり、劇場版から変わった、ということならこの定義は不可能となる。あくまでも、これまでの作劇に則った解釈をするならば、となる)
 ようは私たち視聴者と同じだ。我々は未来の自分には会えない。だからあの女性は、未来の穂乃果では絶対にない。良く似た別人なのだが、似たもの同士だからこそ、ああやって異国の地で知り合い初対面ながらそれなりに親しくなれたのだろう。
 みんなには見えなかったり、マイクだけをおいて行ったりなど、極めて思わせぶりなのだがパーツは散見するが、アメリカの通行人に彼女の姿は見え、歌も聞こえていた。だから確実に実在の人物だ。仲間たちに見えなかったのは、恐らくたまたまだ。
 ちなみにこれは推察だが、二期最終回で歌うことが大好きだと言った穂乃果にとってあの女性は、あんな風になれたらなと思わせるような人物像だったのかも知れない。これは推察となるので確証はない。

 ところでラブライブには、いわゆる現実世界の物理法則や時空を超越するシーンというか、手法が存在する。
 それがミュージカルパートである。彼女たちの(穂乃果の)強い想いや気持ち、感情のあらわれとして、一期一話の最後。二期一話の冒頭。そして二期最終話の最後で披露されている。このパートでは時空は超越し、信号機は思い通りの色を発し、二期へと入ると学校の生徒全員が歌い踊り、みなで楽しむお祭りのようになる。このパートに限りいわゆる「なんでもあり」の状態となる。
 このとき必ず存在するのが、いわゆる曲であり音楽の存在である。これがなければ穂乃果はミュージカルモードに入れない。

 さて、二度目の穂乃果と謎のシンガーとの遭遇は、穂乃果がμ'sの進退で悩んでいた時となる。どこからか歌が聞こえ、穂乃果はその女性を見つける。ここで、おかしな部分がいくつかある。

・その女性が、穂乃果が持っているはずのマイクを持ってること
・通行人が誰もいないこと(穂乃果と女性のふたりきり。穂乃果にしか見えていない)
アメリカにいるといっていたのに、なぜ日本にいる?
・花畑と水溜りの世界になぜか存在し、そしてかつて穂乃果が水溜りを飛び越えようとしていたことを、本人ないしことりと海未でないのになぜ知っている?

 明らかに、二度目の邂逅時はおかしな部分が散見するのだ。
 ここから導き出される結論として、一度目のアメリカでの出会いは偶然であり、穂乃果によく似た女性と穂乃果が偶然(音楽により)知り合った出来事となる。かつて何らかのグループでの音楽活動をしていたがそれを終えて、今はひとりで歌っている。境遇が似ており互いに意識する。しかし、関係はそこで終わるも、穂乃果の中には、あんな女性になりたいと色濃く印象が残った。

 そして問題の二度目。
 これは、ひとりぼっちで悩んでいたという状況の類似(一度目は迷子で、二度目は人生の迷子。いずれもひとりぼっちだ)により、一度目のアメリカで聞こえた音楽が、二度目の時に穂乃果の頭のなかで鳴ったのではないかと思われる。
 これによりミュージカルパートに、すでに水溜りの世界に行く前から入っていたのではないかという仮定だ。だからこそ謎のシンガーはマイクを持っている。この謎シンガーは謎シンガー本人ではなく、いわゆる穂乃果の妄想だ。だから穂乃果の過去のことを知っている。水溜りと花畑の世界はミュージカルパートそのものだ。強く願い、それを楽しめば叶う。あんなでかい池を超えることも。池へと走り向かう最中、落ちている花びらを穂乃果は踏む。この花弁が、次へつながる。

 三度目の邂逅はないが、穂乃果たちがスクールアイドル全員で行うライブのため秋葉原へ向かう前に、みんなが走っていき穂乃果が追おうとしたとき、先ほど穂乃果が踏んでしまった花びらが舞い落ちる。
 それはきっと、あの謎の女性シンガーからの(妄想でありミュージカルパートの住人である女性シンガー)、お別れの言葉だったのではなかろうか。
 何故お別れなのか? 穂乃果はその時、何かに気付いたようだった。その直後にみんなを追い掛ける最中、どこか試すようにおそるおそる、やがて堂々と楽しげに走りながら踊る。電柱に手をかけくるくる回ったりしながら。これは二期一話冒頭のミュージカルパートでの動きとよく似ている。ミュージカルと同じことを、現実で穂乃果はしているのだ。
 そして向かった先の秋葉原。スクールアイドル達全員で準備したあのライブは、特に二期でのミュージカルパートそのものだ。全員で歌い踊り、現実の町中であるのにデコレーションされ騒々しくも華やか。
 何故、女性シンガーからのお別れの挨拶たる花びらが届いたのか? 
 何故なら、既にもうミュージカルパートは必要なくなったからだ。現実にミュージカルパートが出来てしまったのだから。
 やりたいと強く思い楽しめばなんだって出来る。ラブライブ!という作品の象徴としてそれは、歌と踊り、つまりアイドルとして表現される。


 ラブライブ!の正式名称は、スクールアイドルプロジェクトという副題がつく。今回の映画にもわざわざ、ザ・スクールアイドルムービーと副題がつけられている。~フェスティバルやパラダイス、ダイアリー等同様のネーミングで展開されているが、今回ちょっと違和感があった。ラブライブ!・ザ・ムービーではなくあくまで、スクールアイドルムービーなのだ。
 今回の劇場版で強調されたのは、あくまでもスクールアイドルということだ。それは三年生たちからのメッセージでもある。営利ではない。指示されてでもない。あくまでも自分たち主導でやるスクールアイドルという手法で、最高の見せ場であるラブライブ!を目指していく。今回特に、μ'sたちを先頭に他のスクールアイドルたちの協力もあり、その場すらもスケールアップした。

 ここでひとつ、一期OP、僕らは今の中での歌詞に触れてみる。「それぞれが好きなことで頑張れば~」というのがある。ここで決してアイドル活動だけに限定しているわけではない。例え話でスクールアイドルのことがラブライブでは描かれているだけで、その成果の発表の場としてラブライブが設けられている。
 穂乃果たちは、「やりたい」と強く願いミュージカルパート内で成功し、そして実践し結果を残してきた。それは決して、スクールアイドルという題材に限らない。心にミュージカルパートを持ち現実で努力し、楽しみながら実践していけば叶えられないものはない。なにせちっちゃい子供の頃はみんな、夢中で楽しんで物事に取り組んで成功してきたのだから。
 一期と二期はまた重きを置く場所が少し違うのだが、「やりたいことをやる!」という一期から、「みんなの願いのため」と変化した二期。そして「誰もが願いを叶えられる」という主題の劇場版ラブライブ

 これを書いているのは映画封切の日。まだ二度目の視聴を終えたばかりの状態だったが、とりあえずなにはなくとも深読みせねばならないと思ったのは、あの謎の女性シンガーのことであった。二度目の邂逅は妄想で~というところだけで留まったならこれを書くことはなかったのだが、いちおう、それなりに筋の通った仮説は立てられたよう手応えはあるので文章として残します。

 それはもちろん、映画自身が面白くパワーある作品だったため熱をもらえたから、というのも大いにあります。今後視聴を重ね新しい発見など見つけられたら、それも踏まえて書きなおしたり新しく記事起こしたりするかも知れません。あ、やべえこれ違うわって思ったら、いさぎよく消しますw